主日公同礼拝でしていること

神とコミュニケーションをする――聖書朗読と祈り

 礼拝は、神と会い、コミュニケーションする、キリスト教信者の共同体たる教会の営みです。

 もちろん、神を実際に見ることや、声を聞き会話することはできません。

 朗読される聖書の言葉を聴くことで神からの語りかけを聴き、祈りによって私たち人間の側から神に向かってお話しするのです。お話しする内容は、神からの語りかけに対するレスポンスであったり、お願いであったりします。参祷者全員が一斉に声を上げて祈るということはしませんが、司式者の祈りに心を一つに合わせて祈っています。讃美歌を歌うことも祈りに含まれます。そのようにして、神とのコミュニケーションをするのです。

 

神に感謝し、自分自身を献げる――献金

 礼拝の式順の中には、献金というものがあります。

 これは、礼拝の参加料や説教の聴講料、はたまた御利益を受けるためのお賽銭ではありません。そういった要素は献金には何ひとつありません。

 そうではなく、神への感謝と自分自身を献げる(献身)の象徴として献げるもの、それが献金なのです。

 私たちは神からいのちを与えられ、生かされている存在です。逆に言えば、神なしでは生きていくことなどできるわけがない存在なのです。この神に感謝をし、神に従い抜く意志をもって、お金という形で神に献げるのが献金です。

 

キリストをいただき、養われ生かされる――聖餐

 勝新太郎という往年の大映スターがいました。父は杵屋勝東治、兄は若山富三郎でした。彼は非常に肉親思いであったと評されています。父や兄が亡くなった時、勝は遺骨を泣きながら食べたと言われています。とりわけ父が亡くなった時には「とうとうお別れだけど、これで父ちゃんは俺の中に入った」とコメントしたとも伝えられています。

 キリスト教信者はキリストと一体であると信じています。聖餐は、パンとぶどう酒がキリストの体と血であると信じ、食す式です。キリストの体と血を食べ、飲むことは、キリストを体の中に入れ、キリストと一体になることなのです。勝新太郎のエピソードと似ています。

 それと共に、キリストの体と血は、キリスト教信者を養う糧です。永遠の命と赦し――キリストの体と血は、それらのシンボルです。これをいただくことによって、キリスト教信者は信仰的にますます養われ、生かされるのです。

 なお、聖餐は、洗礼と堅信礼を受けたキリスト教信者が受けられます。まだ受けられていない方には祝福の祈りをしますので、信者の方々と一緒に聖卓に進み出て下さいますように。